【ナビ記者通信】阿智村全村博物館構想
作成日:2021年8月22日
ガイド会現地研修は、8/12に阿智村を見て回りました。今回は、阿智村全村博物館構想を推進しているガイドの林さんが案内してくださるとの事でした。最初に立ち寄った所は園原の「ははき木館」。
入り口に立っているのは湯屋守様。昼神温泉の地元だけありますね。色付きは珍しい。
館内で林さんから古代東山道についての説明。
東山道は、中央と地方を結ぶために造られた古代の五畿七道の一つで、琵琶湖の南端瀬田から宮城県の多賀城迄。距離にして1,000 ㎞に及ぶ国道でした。
この道の最大難所は神坂峠超え。道には4里ごとに駅を置いていて、通常は一駅に10頭の馬を置いていた。でもここでは、峠の両側の坂本(岐阜県)と園原に30頭の馬を置いていました。
伝説も色々あって、この建物の名前にもなっている帚木(ははきぎ)もその一つ。今は倒れてしまい根元近くの幹が残っているのみ。館内にその断片が展示されています。
バスに戻り道路を暫く上ります。最初に目につくのは駒つなぎの桜ですね。江戸彼岸の一本桜として人気です。桜の時期ともなると大変な所で、大勢の写真マニアが訪れます。車も通行止めで、ははき木館周辺の駐車場から歩かなくてはなりません。折角なので咲いている時の写真を!
義経が奥州平泉への逃避行の際、この桜に馬を繋いで休んだとの伝説があります。逃避ルートには諸説あり北陸道説が有力ですが、東山道で神坂峠を超えここへ下りて来たという説もあります。つまり決め手のある定説が無いのです。
この道は中央道の恵那山トンネル工事用に作られた道との事です。途中で排ガス用の煙突が見えました。先ずは神坂神社へ!神坂神社 です。祭神は海神と言われる、表筒男命・中筒男命・底筒男命の三海神。海の神様を祀っているのは何故でしょう?この先は道が出来ていないとの事。車で神坂峠超えは出来ません。そもそも恵那山トンネルの工事用道路ですからね。全く行けないかと言うとそうでもありません。車では無理と言うだけです。昔の東山道は残っています。でも歩くとなると、それなりの装備と覚悟が必要ですね!気楽には行けません。社殿の向こうに見えているのは樹齢 1,000年超えの日本杉。神社の御神木ですね。境内には歌碑が幾つかあります。これは万葉集にある、神人部子忍男(みねひとべのこおしお)が防人に赴く際詠んだもの。全て漢字ですね。知波夜布留・・・ちはやふる
「ちはやふる 神の神坂に幣(ぬさ)まつり 斎(いわ)う命は 母父(おもちち)がため」これも万葉集にあるとの事。解説は読めますか?(クリックすると大きくなります)
「信濃道は 今の墾(は)り道 刈りばねに 足ふましむな 沓(くつ)はけ わが背」バスで来た道を歩いて下り、帚木の所へ。帚木はこの林の中の道を登った先にあります。私は脚の調子がイマイチで今回は断念。此処を下ると、暮白の滝に出ます。その手前に帚木の歌碑があります。
*帚木の 心を知らで そのはらの 道にあやなく 惑ひぬるかな (光源氏)
*数ならぬ 伏屋に生ふる 名の憂さに あるにもあらず 消ゆる帚木 (空蝉)
源氏物語の第2帖 「帚木」にあるとの事。となると、詠んだのは紫式部という事なのかな?暮白(くれしろ)の滝を見るための滝見櫓があります。櫓の先には昔の東山道が残っていて、駒つなぎの桜迄行く事が出来ます。暮白の滝は、夕暮れ時にほの白く見えると言われています。滝見台からこの滝に向かって願い事を書いた皿を投げると、願いが叶うそうです。ただこの距離では、とても滝まで届きませんね^^;(皿は、門前屋または、はゝき木館にて100円で販売しています)滝を右に見て東山道を下ると、朝日松があります。園原地籍で一番早く朝日が差す事からこの名になったそうです。元は二股の大きな樹でしたが、昭和39年の台風で折れてしまいました。今はその代わりの松が成長しています。東山道を更に下ります。参考までに、こんな道なのですよ。先方に次の案内板が見えますね。伝説の姿見の池です。京の都から吉次(喜藤治とも)に嫁いだ客女姫(きゃくじょひめ)が、鏡の代わりに使ったと言われる池です。神のお告げで公家の娘が炭焼きの嫁に!押しかけ女房の元祖でしょうか^^;東山道を更に下ると、先ほどの駒つなぎの桜に出ます。そこからまたバスに乗って、次の信濃比叡廣拯院へ。2月に行われる火渡りの護摩行で知られていますが、どういった処でしょうか?説明板です。天台宗の開祖伝教大使最澄(さいちょう)が、峠越えをする旅人の為に無料宿泊所を建てたのが始まり。最澄は比叡山に入り延暦寺を開いた人なので、ここは信濃比叡となりました。建物は未だ新しいのですが、歴史は古いのです。本堂より前に、この最澄の像が建てられました。比叡山にある像と同じ鋳型で造られています。本堂に祀られているのは薬師瑠璃光如来。また、延暦寺から分灯された不滅の法灯が灯され続けています。最澄の時代から燃え続けているとの事です。さて、お昼です。ランチは門前屋さんで、五平餅とざるそばのセットを頂きました。昼食後向かった先は浪合です。先ずは尹良(ゆきよし)親王の墓所。石碑はなく墳墓です。囲いには菊の紋章があります。此処は宮内庁の管轄です。この様な皇族のお墓は、県内にはここだけですね。尹良親王は大鹿を拠点としていた宗良親王の子で、後醍醐天皇の孫と言われています。南北朝時代、80騎余りの兵を率いて三河足助へ向かった。しかし浪合の地で北朝方の兵200余騎の待ち伏せに会い、浪合の合戦となる。多勢に無勢で民家に立てこもり自害した、と伝わっています。その御首を埋葬した塚が此処という訳です。此処は浪合神社の一角です。浪合神社は尹良親王を祀った神社ですね。此処が皇族の墓所と認定されたのは、明治になってからでした。富岡鉄斎や松尾多勢子等の尽力によるものです。次に向かったのは首検分の処。織田信長が此処で武田勝頼 父子の首を確認したとの石碑があります。文字はかなり読み難くなっていたので、以前撮った写真をあげておきます。読めますかね?
【首検分の処 天正十年春三月十四日 織田信長 光秀を従えこの地に出陣 武田勝頼・信勝父子の首を検分する】
この碑を置いた時は未だ浪合村だったのですね。この場所には桜があります。咲いている時の写真をご覧ください。この日は雨という事もあって行かなかったのですが、この先へ進むと御所桜があります。尹良親王にちなんだ桜です。次は駒場(こまんば)へ向かいます。先ずは自治会館で林さんから駒場の説明。かつては大変賑わった町並みで、飯田まで行かなくても全ての商店が揃っていたそうです。実際に町並みを歩いてみました。今度のガイドは、あっちっち熱中人連合の案内人 中村さんです。かつての商店街。白い建物は元郵便電話局。今は空き家となっている古民家は、町歩きガイドの皆さんが管理していて中に入る事が出来ます。最初に入った所は元呉服屋「つぼや」。昭和5年の建築と言う古民家です。一階は店の部分が住まいに改装されていましたが、二階はほぼ昔のまま。試着や商談をした部屋の様です。思ったより奥が深く、中庭を挟んで蔵があり、更にその奥には従業員用の別棟もあったとの事。改めて外観を。元呉服屋とは分かりませんね。町並みを歩いて見て回り、次に入った所は・・・元銭湯の玉の湯。大正初期の建物で、昭和45年頃まで現役だったとの事。手前が女湯、奥が男湯。奥隣の建物には、熊谷元一氏が住んでいた事があるそうです。此方は男湯。湯ぶねは意外と狭いですね。仕切りには商店街の宣伝が。確かに男性向けですね。女湯はこちら。私の知る限りでは一番小さな銭湯ですね。更に町歩き。こちらは元カフェと言う建物。何となくそれらしい雰囲気がありますね。今は普通に人が住んでいるとの事。自治会館へ戻り、この石の説明。石橋として使われていた1枚との事。南信州の記事は、ガイドをしてくれた林さんが書いたものですね。
午前中は何とか降られずに済みましたが、午後からはポツリポツリ。それでも、土砂降りにはならなかったのは幸でした。だんだん寂しくなっている駒場宿。空家も増えている様です。飯田の丘の上も似たような傾向にあります。先行きが心配になってきました。
(ナビ記者)