【ナビ記者通信】らんまんの「里中芳生」は、飯田出身の「田中芳男」

作成日:2023年5月30日

飯田中央図書館へ行ったら、こんな張り紙がありました。

朝ドラ『らんまん』は高知県出身の植物学者・牧野富太郎をモデルとしたドラマ。ドラマなので植物学者・牧野富太郎は槙野万太郎となっています。演じているのは(神木隆之介)ですね。東大に通い始めた万太郎は、やがて植物学研究所への出入りも許されます。そこで(いとうせいこう)演じる「里中芳生」と出会う事に。この「里中芳生」のモデルとなっているのは、飯田市出身の「田中芳男」という事ですね。

「田中芳男」とはどのような人でしょう。飯田のリンゴ並木と桜並木の間に「田中芳男」の顕彰碑があります。

手前にはその説明の碑があります。読んでみましょう。クリックするともう少し大きくなります。

りんご・ビワ・サボテン・白菜などの品種改良を行い普及しています。アスファルト舗装・人造石・冷蔵庫の実用化にも尽力しています。これを読むと、田中芳男は大変な功績を残した人と分かりますね。
顕彰碑の裏にはビワの木が2本。

間に説明があります。

品種改良をし、田中ビワを作ったのですね。田中ビワの特徴は実の大きさとの事です。他の品種より大きな実が生る様です。この木には・・・出来ていますね~。収穫は誰が行っているのでしょう?食べてみたいものですね。

美術博物館の庭には、氏の銅像があります。

アップもご覧ください。

その美術博物館ではこんな本も出しています。資料の写真はこれに載っているものです。

表紙ですが、田中芳男が一番大きく載っていますね。その他の人は誰か分かりますか?この写真は大正元年(1912)に撮影された物。もっと若い時の写真は? 明治6年(1873) 撮影の写真もありました。なかなかのイケメンですね。

生まれは天保9年(1838)。今の中央通り二丁目、飯田役所内で医師の3男として生まれました。昔は役所内に医師の家があったのですね。後年、名古屋へ出て洋学の大家「伊藤圭介」の門人となります。文久2年(1862)師に従って江戸へ。幕府の洋学研究機関「番所調所」で舶来植物の調査や試験栽培を行い、多くの有用植物を日本に取り入れています。リンゴも海外からの苗木を改良増殖し、東北・長野へ配布しています。

慶応3年(1867)パリ万国博覧会では出品物の輸送と展示を任され渡仏。その後も明治6年(1873)のウィーン万博、9年(1876)のフィラデルフィア万博にも事務次官として携わっています。
こちらはウィーン万博から持ち帰ったドイツの養蚕法を翻訳して紹介した物。

明治5年(1872)には、湯島聖堂で文部省博覧会を開催。これに尽力しています。これが博物館発祥の起源ですね。

明治9年(1876)、東京農学校を発案。これが後の東京大学農学部となります。牧野富太郎との出会いはここですね。牧野は田中の24歳年下。師弟関係の二人は親しく交流していて、手紙のやり取りが残っています。

明治15年(1877)上野公園に国立博物館を開設。その付属施設として動物園が誕生。翌年その上野公園で「水産博覧会」を開催。そこで幹事と審査長を務めています。

水産動物図も手掛けています。

こちらは動物図。

標本も手掛けています。こちらは自身が集めた貝の標本。

この様な実績から、博物館・博覧会の父と称されています。大正4年(1915)には長年の功績により男爵となりました。
大正5年(1916)6月、77歳で亡くなりました。

 

先の顕彰碑にはもう一人「田中義廉(よしかど)」の名があります。ドラマには出て来ない様ですが、義廉は芳男の弟です。兄と同様 伊藤圭介に蘭学と医学を学び、江戸では福沢諭吉に英語を学んでいます。

慶應3年(1857)幕府の海軍士官に。明治2年(1869)には海軍操練所の創設に尽力。海軍兵学寮の教授を勤めました。

明治5年(1872)文部省に移り師範学校の創設に尽力。小学校の教科書の編纂を主宰。翌年編纂した「小学読本」は最初の国語読本として全国に普及しました。

他にも、日本史、日本地理、世界地理、物理の教科書も作っています。

兄とも交流していて、この様な手紙も書いています。こちらは蒔絵師を兄に紹介した物。


明治12年(1879)、38歳の若さで亡くなりました。

如何でしたか。多少なりともドラマを楽しんでいる方の参考になれば幸いです。もっと詳しく知りたい方は、この本をどうぞ。全国の図書館で借りられると思います。私も飯田図書館でお借りしました。

(ナビ記者 1)

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